
古本と呼ばれることが多い中古本は、中古品の中でも特に身近な存在です。
子供の頃に読んだ漫画や小説を、大人になってから中古で読み返した、という方も少なくないのでは?
基本的に中古本は数百円程度という安価で売られていますが、絶版となっている本の場合、数万円ものプレミア価格がついていることもあります。
特に、専門書や美術書など、読者がある程度限られている本や、一部に根強いファンを持つ本の場合、プレミア価格がつくことが多いようです。
古典嫌いが生じる理由が分かる!
高校で古文が嫌いになる生徒はたくさん居ると思いますが、
その嫌いになってしまう理由を明快に説明してくれています。
実際、著者が教科書に採用された時も
面白い部分を飛ばして教科書に採用されていたというエピソード。
そういう過程があって、高校教科書は
どんどん味気ないものになるのだな、というのを
感じました。さて、この本を読んで、
私は日本の古典が好きになったかというと…う〜ん、えへへ(^^;)
やっぱり古典・古文は難しいですね〜というのが最終結論。
なかなか古典好きになる道は険しいです(泣)っていうか、
高校であんなに古典を強制してもいいのかなあ??
あれで古典嫌いを増やしているだけのような…古典が好きになりたい!!
珍説妄説のオンパレード
田中貴子氏は博学であるものの、きちんと先行研究を踏まえない、定説となっているものを尊重しないという態度でこの書をものしています。
たとえば藤原定家の書写方針を説明するくだりで「『源氏』の写本をできるだけたくさん集めて、紫式部の書いた本を復元しようとしたことです」などという驚愕の珍説を披露したり(実際はよいと判断した一本に手を入れた、復元などはまったく考えていない)、貫之自筆本土佐日記を見ていながら有名な冒頭文の「男もすなる日記」を「男もすといふ日記」と改変しているのにも関わらず(伝聞「なり」を意訳した)、「藤原定家は、中世における言葉の変化を『言葉の乱れ』と感じたのでしょう、必死で平安時代の言葉を守り抜いています」などという妄言を吐いたりしています。また「歴史的仮名遣いを定家仮名遣いと呼ぶことがあるのはそのためです」という、これまた日本語学史の常識をまったく無視した新説(契沖はどこに行ったのでしょう?)をも披露しています。
いかに中高生向きの入門書であっても、事実と違うことを固定観念や先入観で堂々とお書きになるのは許されるものではないでしょう。研究者の看板を掲げているのならなおさらです。きちんと先行研究を踏まえ、それを活かすべきです。私は、この本を手に取った中高生が、学問の裏付けのない「奇矯なる新説」を疑いもなく信じてしまうであろう不幸(指導している学生にも同じ話をしているのでしょうか?)を、心から残念に思います。
古典至上主義
古文が出来るようになるには、やはり古文が好きにならなければならない。
読めない分からないと言って、読まないのは馬鹿馬鹿しい。
古典の中には、芥川賞や直木賞を百回贈っても飽き足らないほど面白いものもある、そう感じるようにさせてくれる。
太極宮で京極夏彦も推していた一冊である。